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カラ=西アフリカ農村自立協力会の会報 「からばす」7号から |
| 「セイドゥ君の結婚」
村上 一枝 カラの人気者・運転手のセイドゥ・ジャロ君が1月24日・木曜日に結婚式をあげました。今回はセイドゥの結婚式の様子をご紹介します。特に木曜日と記したのは、この日はムスリムにとって結婚に適した日で多くのカップルがこの日を選びます。奥さんはアラマタといって21歳、裁縫学校を終了したしっかり者でお姉さんの風格、体も大柄です。セイドゥは若く見えますが31歳です。この結婚式はセイドゥの1番上のお姉さんの世話で成立しました。商売をしているお姉さんはジャロの家の仕切り屋だそうです。このお姉さんにはセイドゥは逆らうことが出来なく、何かにつけて姉さんが、と言う言葉が出てきます。彼らは2000年11月にマリアジュ・レリジュ(宗教上の結婚式)を挙げています。これは本人は出席しないで保証人、親戚や友人が出席してモスク(イスラム寺院)でイマーム(イスラム教の司祭)のもとで取り交わされる結婚承認式です。かれらにはすでに男の子が1人誕生しています。 今回はバマコ市へ届けるマリアジュ・シビルです。式の日は、花嫁は純白のウエディングドレスでベールを長く引き、花婿はグレーのスーツでいささか小柄なセイドゥにはスーツがプカプカしていたのが気になりました。式が始まるまで招待客は1時間5分も式場前で待たされましたが、折からマリで開催しているアフリカ・カップ出場のセネガルチーム応援団の路上パフォーマンスを見て時間をつぶしました。やがて、今日は運転手つきのベンツで華やかに登場し、我らがセイドゥ君は照れたような笑顔、アラマタは黒々した長髪のかつらをつけ、美しくお化粧をして映画スターのようでした。カラのスタッフも現地から駆けつけ記念写真に収まりました。バマコ市で見る限り結婚式をあげるカップルのコスチュームは西洋式で、記念のビデオ撮影も行われ、日本の光景と何ら変わりはありません。 彼等の周りではグリオとタムタムが結婚式を賑やかに盛り上げていました。 しかし服装は西洋式でも、結婚の日の行動はマリの慣習に従っています。その一つは、日本の披露宴に当たるものは花嫁側と花婿側の家で別々に行われ、その時は2人はその場には居ないで生みの両親、義理の両親、親戚へ挨拶廻りです。ここで言う義理の両親とは伯父、伯母で保証人の立場の人のようです。それが終わると花嫁は実家へ戻り、実家ではジェンベ(タイコ)に合わせて踊りや歌が始まります。食事も大きな器で出ます。多くの家は路上でテントを張って行いますので車は通ることが出来ません。私も時々街でこの光景を見るにつけ、使われているテントがUNHCRやUNICEFだったりで、これも発展途上国への支援の一つかと思い不可解になることがあります。花婿の実家でも同様です。 両親へ挨拶に来た2人が立ち去ると、食事で招待客をもてなします。食事はたいがいザメと言う炊き込みご飯で、なかなかおいしい料理です。飲み物は、生姜ジュースかハイビスカスのジュースが一般的です。結婚の日は多くの人が集まり、招待状が無くても食べに行くことは出来ます。だから賄い方は非常に大変で、100sも200sもお米を購入する家もあり、金持ちの家は牛を10頭、羊を15頭、鶏を50羽使う時もあるそうです。女性は何日も前から準備を始めます。お米の中に入っている小石を取り除く仕事、例えば、100sのお米を少しずつ広げて目を皿にして混じり物を取り除くのに始終します。料理用の巨大な鍋や器もいくつも用意されます。セイドゥの結婚式では直径50cm位の器にザメが入ってカラの事務所へ運ばれてきました。勿論カラの警備員にも振舞いましたが大変な量でした。 当日の出席者の服装は、民族衣装が多い中でこの頃は若い女性に黒いスリムなスリップドレスが人気です。(女性のファッションは日本も同じ、でも違うのは体形!!。)
結婚式当日、夕方になると周囲の人は新婚の2人を結婚の部屋へ入れる準備を始めます。この部屋は新郎の実家だったり、知り合いの家の部屋を借りたりもします。2人は周囲の人に体を洗ってもらいますが、別に裸になるのではなく、手足、頭、顔などを洗い、2人は部屋にこもります。これは1週間続きその間は外へ出てはいけません。花嫁は朝、昼、夜と3食おかゆを食べるのがしきたりで、花婿は肉など、何を食べてもいいと言います。なぜ違うのか聞いてみると、花嫁が両親の勧めで、意に沿わない結婚をしておこもりに入った時、力を弱くして男性に抵抗できなくするためだといいます(本当でしょうか?)。でも今は形だけで最初の日から朝食はコーヒーにパンだそうです。1週間が過ぎ、おこもりが終わり早朝4時頃この式は終わります。外へ出てくる時は、男性が最初に出てくるのが順当で、女性が先に出て来ると、おこもりがうまくいかなかった、つまり愛情が通じなかったということだそうです。セイドゥの場合、セイドゥが先にニコニコと出て来たと思いますが、聞いてみたい気もします。カラの活動地域(つまり、田舎)での結婚式の習慣についても機会があったら詳しく聞いてみようと思います。 それからこの機会にもう一つ、セイドゥの子供の頃の話です。セイドゥは10人兄弟の9番目。バマコから約150km北東のバラウリ村生まれでプル族です。勉強が大嫌い、近所で評判の悪童で、大親友のジョップと毎日学校へは行きますが教室で悪さばかりして先生に叱られ、「出て行け」と言われれば、「ハイッ」と待ってましたとばかりに校庭のマンゴの木に登り、授業終了を待ち、何食わぬ顔で家に帰っていたそうです。毎日毎日木の上でジョップと色々な話をしていたといいます。学校へ行っているとばかり思っていた家族、しかし授業へ出ないで悪さばかりして、叱られていたことを先生から知らされた母親(父親は早くに死亡)やお兄さん、例のお姉さんたちに叱られ、食事もさせてもらえなかった時は、友人を脅かして100cfaせしめていたといいます。 或る時ジョップと例のマンゴーの木の上で、「こんなことをしていても何にもならない、勉強は嫌いだから何か仕事をしよう」と決心し、2人は学校を6年生で止めるすることを家族に許してもらいました。色々な仕事を経験し自動車が好きなので最終的に2人は運転手になりました。社会に出て働き、多くの人に信頼を得るようになりました。ある日2人は、昔迷惑をかけた先生に悪行の数々を謝りに行ったそうです。先生は「いいよ、いいよ、過ぎたことだ」と許してくれました。セイドゥは「本当によかった、これで安心した、長いこと気にしてきた」と言い、「やっぱり勉強していれば良かった」とも言いました。私はこの話を聞いて会ったことのない先生の顔と、ものすごく汚れた悪童2人の顔、校庭のマンゴーの木を想像し、暖かい気持ちになりました。その先生は今は亡くなったそうです。2人の座る場所を与えていたマンゴの太い枝は、マンゴの枝に化けた誰かだったのかも知れませんネ。
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今私に出来ること 石田 理恵 (会員) はじめまして。鹿児島の会員の石田理恵です。私は中学の時に環境問題と、何かボランティアをすることに興味を持ち、AERAの「環境学がわかる」という本でカラ=西アフリカ農村自立協力会に出会いました。まだ学生だったので母に「お金を出すことは簡単だけど自分の出来ることをしなさい」と言われ、使用済みのテレホンカードを集め出したのが始まりです。 それから何年も経つのに、村上一枝さんに出会ったのは昨年が初めてです。昨年11月鹿児島市で「国際フェスティバル」があり、村上さんやカラの方々がいらしてくれたのです。 それまで会ったこともなかったので、とてもドキドキしながら会場へ行きました。カラのテントへ行き、私が「会員なんですが。」と話すとすぐに「あなたが石田理恵さんね。」と名前をフルネームで覚えていてくれて、とても嬉しかったです。フェスティバルではマリ共和国の人々が織ったステキな布や、会員の方が作られたメガネチェーンなどがあり、私は絵葉書を買いました。その晩は、市内の会館でスライドを使って講演会が開かれ、現地の状況を知りました。本当に木が一本も生えていないので、暑くても日陰がないそうです。今そこに木を植え、人々がそれを生かそうとしています。私は始めて見るマリの光景やカラの活動の様子に改めて興味を覚えました。 その後、この会を通じて友人が出来てその方の紹介で今は数人の外国人ともお友達になりました。言葉が良く通じないため誤解が生じ、ケンカをすることもありますが、次第に理解し合えるようになりました。 私の国際交流は広がりつつあります。以前、採用条件(注:カラのスタッフとして)を聞いた時に、「身の回りの事が自分で出来ること」「状況判断を的確に出来ること」「健康であること」「フランス語が話せること」というのがありました。普段の生活の中でも疲れているだけで笑顔じゃなかったり、人に席を譲らなかったり、気が付いているのに目の前のゴミが拾えなかったりするのに、まして母国語ではない国の人々と生活していく事は半端じゃないと思います。 自分の出来る小さなことは何かを意識し、私の周囲の多くの人たちへまだ良く知られていないマリについて、そこに暮らす人たちのことや現状を伝えるよう心がけようと思っています。これが私の今出来るボランティアです。そしていつかマリへ行くことを夢に見ながら、私自身が世界の多くのことを知り国際的に通じるような人間になりたいと思っています。
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